苦楽の関係

 今、新型コロナウイルスで、非常に多くの感染者が出ているということで、全国で騒がれている。幸いにも、私のすむ鳥取県は、全国的にも最も少ないほうであるし、その県内でも、田舎のほうに住んでいるので、コロナの心配はほとんどしていない。

 さて、現代はあらゆる面において、便利な世の中になった。インターネットの普及で、調べれば、ある程度は出てくる。昔は分厚い辞書なんか開いて調べたものだ。今は、辞書など開いたことがない。みんなインターネットで調べるのだから。

 生活用品についても、便利さは頂点を極めている。家電製品は、便利である。電気の世の中になったけど、でも停電になったら、いっぺんに困ってしまうだろう。半月も電気が戻らなかったら、どうだろう。実際にそのようなことがあった。去年の9月、千葉県の台風災害によって、停電が発生し、復旧に時間がかかった。

 便利な生活の反面、実に不安な気持ちは捨てきれないのが現実である。私が子供の頃は、風呂焚きも自分でやった。これは子供の役でもあった。さて、今はどうだろう。子供は火の扱いには、とても慣れているとはいえないのが現状である。

 私が子供の頃の仕事は、風呂焚き、牛乳配達、たまに新聞配達、洗濯物を畳む、たまには食器洗いの手伝い。いろんな役割があった。

 古い方の家では、豆たん炬燵だったりした。もちろん、当時のテレビはリモコンなんかではなく、テレビにダイヤル式のノブを回して、チャンネルを変えた。また、祖母は後ろの川で洗濯をしていた。古い方の家の後ろから少し行くと、湧き水があり、今でも清水が湧き出している。

 話がだいぶ反れてしまったが、結局何が言いたいかというと、不便さを体験して初めて、便利なことが引き立てられるということだ。便利さの時代に生まれた世代に、不便さは過酷なように映るかもしれない。しかし、敢えて不便さを選ぶ人もいる。

 テレビを見ていたら、無線をやっている人が出ていた。いわく、遠くの外国の人と無線で通信するのに、電話みたいにはっきりと聞こえてしまうと、遠くであることを感じない。はっきりと聞き取りにくいから、いいのだよ、と。遠くの人と無線で繋がったんだなと、より実感できるというわけ。電話みたいにはっきり聞こえたら、遠くの人と話しても、近所の人と話しても、変わらない。雑音で聞き取りにくいから、いいと。

 それと同じように、生活においても、不便さを敢えて求める人もいる。便利さばかりだと、やはり、「生きている」という実感を得るには、不十分なのかもしれない。

 それに、生活は便利になったとはいっても、より気持ち的には忙しくなったのではなかろうか。昔はもう少し余裕があったように思う。まあ、それは人それぞれかもしれないけど、私は、そう思う。

 人生における大変なこと、苦しいことは、必ずしも悪いことではない。大変な状況の場合、それから解放されたときには、逆の側面である安心感、平穏をより感じることができるわけだから。

daivamprema

2020.12.30